WILD-1会報のあった時代
会員向けWILD-1会報に思う
時は1986年3月、WILD-1会報創刊号が左の写真である。巻頭を飾ったのは見川鯛山『 山からの手紙1 タヌキの皮』で挿絵はおおば比呂志とあるから豪華だ。当時は、会報専任女性スタッフが正社員でいた。そして店長が彼女を補佐し会報は続けられた。
これを書くにあたり、改めて面白いなと思ったことがある。それは当時母体となるホームセンターカンセキが自動車ディーラーもやっていて名前をAutorama(オートラマ)と言った。それに関わる記事が半分ぐらい占めていて、表4 もオートラマの主力車種フォード車で彩られていたことだ。第67号まで彼女が担当し、彼女の退職にともない男性スタッフに引き継がれた。そしてさらに1993年5月号から僕が専任となったのだ。
僕が手掛けた第1号が右の写真である。表紙に仙台泉店OPENレポートあるからWILD-1の5店舗目がオープンした直後だ。表紙写真も僕が撮った。写っている男は、まさに僕の会報担当前任者だから笑える。撮影場所は隣の宇都宮東公園。WILD-1オリジナルブランド『Pantanal』(このブランドも今はない)のカタログもこの会報に挿入して一石二鳥を図ったわけだ。
この頃から経費削減ばかり唱えるスタッフが登場し頭を悩ませる日々がその後続くわけで、この形態での会報は1996年2月号116号までであった。つまり、経費削減の対象として終わったのだった。
アウトドアという遊びを売るWILD-1だが、内実はどんどん遊びが出来なくなる風潮、それが辛かったのを思い出す。やっぱり、遊びに無駄は付き物だからさ。